2025.11.18
第4話:植木・導線・目隠し――“見えない整え方”に宿るZEN
庭をつくるとき、よく聞かれるのは「どの木を植えるか?」ということ でも僕が大切にしているのは、“どこに”植えるかです。 例えば: アプローチの途中でふと視線を止める「見つけの木」 玄関を出て振り返ったときに映える「見返りの木」 視線が抜けすぎる場所に置いて、自然に歩みを誘導する植栽 これらは説明しなければ気づかれないほど小さな工夫。けれど、人の動きや心の落ち着き方に大きく影響しま…
投稿日:2025.11.20 最終更新日:2025.11.20
映画庭って、本当に面白いですね!(淀川長治風に)
最近、日本庭園にはまっている
昨日、京都で立ち寄った 無鄰菴(むりんあん) の庭は
“なぜか気分がよくなる庭”
もちろん、その“よさ”は偶然じゃないのが庭の面白いところ
そこには、
先人たちの自然への敬意、美への執念、伝統からくる手法
そして心を整えるための知恵

が重なっている。
無鄰菴を歩いていると、
琵琶湖から引いている水のせせらぎ、風で揺れる葉の影、
芝生のやわらかな色、紅葉のコントラスト、

遠くの東山の借景
どれもがひとつの音楽みたいに調和している。

ただ美しいだけじゃない。
心の深いところに直接ふれる“設計された癒し”







激動の明治を生き、
戦争や政治の重圧と向き合った山縣有朋が、
なぜここまで庭にこだわったのか。
ここが凄く気になる
たぶん彼自身が、
静けさ、平穏、心の回復 を必要としていたんだと思う。
国家の運命がかかった彼のプレッシャーを考えると
庭が必要だったという事が理解できる
庭とは、
「眺めるもの」じゃなく
「心を整えるための場所」
ストレスで固くなった心をゆるめ
マインドを“今ここ”に戻し
教養やたしなみを磨き
整えないと壊れてしまうくらいだったと私は思う
無鄰菴の庭は、
山縣有朋の庭への想い、作る必要が絶対にあった
そんな背景に思いを寄せて見学した無鄰菴の庭は
格別なもので
私の心も整いました
2025.11.18
庭をつくるとき、よく聞かれるのは「どの木を植えるか?」ということ でも僕が大切にしているのは、“どこに”植えるかです。 例えば: アプローチの途中でふと視線を止める「見つけの木」 玄関を出て振り返ったときに映える「見返りの木」 視線が抜けすぎる場所に置いて、自然に歩みを誘導する植栽 これらは説明しなければ気づかれないほど小さな工夫。けれど、人の動きや心の落ち着き方に大きく影響しま…
2025.11.18
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2025.11.18
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